横網一丁目遺跡(第二地点) (吉川ほか(2002)より抜粋)

太平四丁目遺跡における古環境変遷 (吉川ほか,2003)

 太平四丁目遺跡は、JR錦糸町駅の北方約400mに位置する。この付近は東京低地のため、明暦の大火(1657年)以降に整備され、積極的に利用されるようになった。調査地は1703年以降、幕末に至るまで「近江膳所藩本多家」の下屋敷であった。本遺跡からは近世の池跡が検出され、この池跡は調査地の大半を占める。自然堆積層の堆積物の粒度特性や有機物量、及びイオウ含有量の変化、貝類の産出状況から下位よりT,U,V,W,X5つ堆積環境が復元される。

 T期(1415層): 浅海の砂泥底(弥生時代中期以前)
 U期(1213層): 汽水域の潮間帯の干潟(マガキ礁:弥生時代中期頃)
 V期(9-11層): 浅海の砂泥底
 W期(8層): 河 川
 X期(7層): 後背湿地

 T期のNo.75には浅海の砂底に生息するヒメバカガイが含まれ、イオウ含有量が9.93629.951%と高いことから浅海の堆積物とみられる。この周辺では2層準でカキ礁が形成されていることは先に述べたが、U期のマガキが下位層準のカキ礁に対比されるため、時間、空間的な堆積環境の変化からも調和的である。ただし、横網一丁目遺跡や江東橋二丁目遺跡に比べ泥質な堆積物からなる。

U期には海退に伴い汽水域の干潟に変化し、カキ礁が形成された。12層のマガキでcalBC 130の放射性炭素年代であることから、カキ礁の形成は弥生時代中期頃と推定される。カキ礁の形成は、幼生の着生の深度から潮間帯に限定される(鎮西、1982)。カキ礁の生長速度は、天然の干潟において最大で1cm(鎮西、1982)、横網一丁目遺跡では放射性炭素年代から0.26cm/年と見積もられている(吉川ほか、2002)。本遺跡ではカキ礁は厚いところで20cm程度であるため、横網一丁目遺跡の生長速度に基づくとカキ礁の形成は約80年と見積もられる。本遺跡の南西約650mにある江東橋二丁目遺跡とは、カキ礁の形成時期、形成期間、及び分布標高が概ね一致し、弥生時代中期頃に最もカキ礁が広く分布していた可能性が考えられる。

V期ではイオウ含有量が1.11211.340%と高いことから海成ないし汽水成堆積物であることは明らかである。粒度組成は、U期に比べ11層や10層下部ではいくぶん細粒になり、9層で僅かに粗粒になるが著しく変化するわけではない。標高の高い横網一丁目遺跡(吉川ほか、2002)ではカキ礁が弥生後期頃まで継続して形成されていることから、本遺跡におけるカキの消滅は水深が増し浅海化したためと推定される。

WX期はイオウ含有量が低いことから淡水性の堆積物とみられる。W期では流水の営力の強い河川環境に変化し、X期では後背湿地のような泥が沈積する穏やかな環境に変化した。ここでは時期を特定する試料は得られていないが、横網一丁目遺跡の河川堆積物にHr-FPが多量に含まれている(吉川ほか、2002)ことから、淡水化した時期は早くとも6世紀中葉以降と推定される。

 引用文献
鎮西清高.1982.カキの古生態学.化石,3127-34
吉川昌伸・吉川純子.2002.横網一丁目遺跡(第二地点)における環境変遷史.墨田区横網一丁目埋蔵文化財
 調査会編「本所御蔵跡・陸軍被服廠跡」,
121-138
吉川昌伸・吉川純子.2003.自然科学分析の成果−太平四丁目遺跡における環境変遷史−.墨田区太平四丁目
 埋蔵文化財調査会編「東京都墨田区太平四丁目遺跡」,
157-174